老中奉書(天和3年に水口城の門の立替えを許可する内容)
江戸時代、水口には水口藩が置かれました。それは天和2(1682)年に、石見国吉永(現島根県大田市)から加藤明友が、1万石加増の2万石で就封したことに始まります。加藤家は「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明を祖とする外様大名で、明友を初代藩主として、明英・嘉矩(以後2万5千石)・明経・明熙・明堯・明陳・明允・明邦・明軌・明実と幕末まで藩主をつとめました(ただし藩主としては明英と嘉矩の間に譜代大名の鳥居忠英が一代入り、明英以降は譜代格となります)。
水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。
辞令(写)(明治2年に加藤明実を水口藩知事に任じる)
しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。
「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。
また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。